離欲(ヴァイラーギャ)

おはようございます。
昨日、千葉から戻って来ました。
今朝は高原の朝のように涼しく爽やかでした。
今日は大好きなbeyogaに行ってきます。
さて、最近は、ヨガの哲学のお話をしています。
今日もスートラから一節をご紹介しますね。
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多くの方が、ヨガの練習とはポーズの練習だと思っているかもしれませんが、実はマットの上の練習だけではありません。
私達は常に人生のいろんな状況に置かれていて、色んな個性をもっています。
マットの上で激しく体を動かさなくても、ヨガの練習はできますし、ヨガマットさえない国にも、ヨガはあります。
私はインドのアシュラムに行ったことはないのですが、そこでは炊事掃除などをボランティアでしている方がいらっしゃったり、日本でもボランティアに人生を捧げている人もいるでしょう。
実はそれも「ヨガ」なのです。
私も一時期ボランティアをまあまあ熱心にやっていたことがあったのですが(^^ゞ、まだ人生に迷っていたその時から、実はヨガをしていたのだなぁと、「カルマ・ヨーガ」という言葉を知って嬉しくなりました。
ヨガを、以下のように分類することもできます。
・カルマ・ヨーガ:他人への奉仕のヨーガ(良い行いをする、ボランティアなど)
・ダルマ・ヨーガ:自分の仕事を自分のヨーガとする(それが何であれ、自分のする仕事を大切にすること)
・ジュナーナ・ヨーガ:知識のヨーガ
・バクティ・ヨーガ:献身、愛のヨーガ(神を崇拝し、チャントや儀式を大切にする)

このうち、日本人の多くは「ダルマ・ヨーガ」をしていると言えるかもしれません。
また、宗教全般が「バクティ・ヨーガ」の要素を含んでいるとも言えるでしょう。
そして、知識を追求する学者、研究者、哲学者などは「ジュナーナ・ヨーガ」の分類に当てはまるかもしれません。
私が、「人間とは何か」と思い悩んだり、深く考えたりしたことも、ある意味「ジュナーナ・ヨーガ」であったかもしれません。
しかしながら、私達はこの「行い」をすることによって得られる、「結果・成果」を求める傾向があります。
というか、ほとんど成果のためにしているかもしれませんね(^^ゞ
ですが、「結果を求めない」ということが、実はとても大事なのです。
この離欲(ヴァイラーギャ)こそ、ヨガの難しいところ。
私達は、欲の塊ですから・・・
でもそれはエゴの部分。
皆さんにも、経験があるのではないでしょうか?
一生懸命ベストを尽くしてやりきったら、結果悪くても心が晴れやかであったことを・・・
私達の本質の部分(真我)は、何も求めてはいないのです。
これらの心の作用は、修習(アヴィアーサ)と、離欲(ヴァイラーギャ)によって、止滅(ニロダハ)される。
ヨガスートラ Ⅰ-12

ヨガの練習においては、自身のできる範囲で、競争心にとらわれずに周りから分離する感覚を持って、ただマットの上に立つべきである。
するべき練習をすることだけを求め、何か特別な結果を求めない。

namaste
aki

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