サットヴァ

最近は、新しい本を借りたり買ったりせずに、自宅の本棚にあるヨガの本や雑誌を読み直している。
もう何度も読んだお気に入りの本でさえ、新たな発見や気付きがあるから驚く。
その時「わかった」「理解した」と思っていても(その時の感動や発見にももちろん意味があるが)、いかにそれが身になっていないか、情報や知識は自分の意識の中で過ぎ去っては忘れ去られていくかということを思い知ると同時に、以前はわからなかったことが、今はわかる、ということが多々ある。
ヨガの哲学やスピリチュアルなことは、自分の経験でしか理解できない。
いくら経典を読み込んでも、理解できないときは理解できないもの。
ヨガの哲学に触れる度、少しわかった気になって傲慢になっていた自分に気が付き、まだ何も知ってはいない自分に気づく。
その積み重ねが自分に謙虚さを与え、自信を失っては自分を取り戻していく作業の連続。
そして世界を客観的に見れば見るほど、すべては同じことの繰り返しであり、単調で退屈なものだと気がつく。
その単調で退屈であることに人は耐え切れず、自らを仕事に追い込み、何かをして気分を紛らわし、娯楽や新しい情報や天気の変動や人の噂話に躍起になっている。
時間に追われているように思えるのは、自分が自分を急かしているからに過ぎない。
皆それに気がついていない。私もそうだった。
しかし、日々の営みはとても単調で単純だけれども、その平凡な日常の中にこそ、純粋さ“サットヴァ”が息づいているのを感じる。
自分の内側にあるもの。
外側の世界に右往左往しているうちには、なかなかそのサットヴァに気がつかない。
「自分とは何だろうか」
「なぜ、ここにいるのだろうか」
意味を求めることは、もう必要ではないことを知る。
もちろん、自分の存在に、またはこの世界の事象に意味をつけることはできる。
そして、意味もあるのだとも思うが、それらを追求することは私の中で終わった。
「意味」や「結果」は重要ではない。
ただ私がヨガを生きること、ただそれだけなんだ。
誰がなんと言おうが、たとえ自分の行いがすべて無意味であっても。
そしていかに人生の中で、生活の中で、自分のプロセスを信じ、“純粋さ”を表明していくことができるか。
“サットヴァ:純粋性“
日常の中でサットヴァを意識する。
日々の雑事や仕事に追われ始めると、途端に見えなくなってくる。
しかし、ようやく私は毎日自分と向き合う、自分のためのヨガの時間を得ることができるようになり、今までの古いパターンから抜け出すことができたように思う。
そして、純粋さを自分の内側に感じ、それをできるだけ維持したいと思う。
でも不純であっても構わない、もともとは不純であることの前提がある。
心身が不安定で、不健康であっても構わないし、色んな問題や葛藤があっても構わない。
ヨガとはあらゆるものを肯定する懐があるのだ。
サットヴァであるということは、そういう外側の問題ではない。
もちろん、サットヴァであることによって、あらゆる問題は消えてなくなる。
しかし目に見えるものはすべて移り変わる、変わらないものなんて何もない。
すべてを包み込む包容力がサットヴァにはある。
サットヴァとは、静けさであり、愛である。
正直さであり、無執着である。
今までは、社会で生きることは、その自分の純粋さを撃ち殺してしまわないと生きれなかった。
でも、時代が変わりつつある。
皆の純粋性が、生かされる時代になった、と私は思う。
音楽や芸術だけでなく、あらゆるところでその純粋性が発揮されるようになる。
差別や偏見のない時代に、変わりつつある。
自分が変わることでしか、世界を変えることはできない。
そして、世界を変えようとするエゴを手放すことこそ、必要なことだ。
shantii
aki

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