無知(アヴィディヤ)

自分の中に、何があるのだろう。
わけもわからないような激しい怒り。
子供の頃の、苦い記憶がよみがえる。
父が怒鳴り、母が叫ぶ。
泣き叫ぶ子供。
ふっと、父の姿と夫の姿が重なる。
ふっと、母が私の中にいる。
あのときの記憶が、再現されていた。
子供の私を、大人になってから沢山癒してあげたと思ったのに
まだそこにいるの?
どうして、まだそこにいるの?
何を伝えたいの?
そう、まだ私は怒っている。
まだ、泣いていたんだね。
許し。
手放す。
それを言葉で言うのは簡単。
身体と心を使って体験してきた。
何度も許し、何度も手放す。
それでも、まだ消えない心の澱。
人間の感情と記憶、意識と身体。
複雑に絡まり合いながら、この世界へ放射している。
幾重にも重なりながら、収縮と膨張を繰り返し。
命は生まれては死んでいく。
魂は巡り巡って。
宇宙と地球も
収縮しては膨張している。
サマディは、人類を救うのだろうか?
光の世界はあるのだろうか?
すべては幻だろうか?
そう、きっと、すべては幻。
今、ここにあるものさえ、すぐに消えてなくなる。
過去も未来も、今というただ一点の中にあるのだろう。
自分のことを知らないことを、無知(アヴィディヤ)という。
それが、障害(ブロック)の一つ。
アーサナによって毒素を取り除き、呼吸法と瞑想によって無知(アヴィディヤ)を燃焼し
この二元性の意識界を超越した純粋な知性に出会う。
そうやって、ひとつひとつ自分の無知を克服していく過程で、今に至るのか。
カルマは繰り返す。
そして、そのカルマの鎖を解きほぐすのも、自分自身。
私の魂の記憶、そして今世のすべての記憶によって作り出される毎日のドラマ。
そこには美しく成長した蝶が、大空を舞っているかと思えば
闇夜の中に閉じ込められた、小さな子どもが泣いている。
どのどちらも、私自身が作っている幻想。
私は幻想の中で溺れそうになり、しばし立ち止まる。
私とは、誰であろうかと、もう一度、見つめなおす。
今導き出せる自分のその答えによって、私は少なからずこの状況を受け入れ、どうにか救われる。
いや、まだ私は何かわだかまったままだ。
私は、まだ私を知らない。
私はまだ、わからないことばかりだ。
そして、私には誰ひとりとして人を救うことなんてできないんだと思う。
人ひとり癒すことの、難しさ。
自分一人でさえ、こんなに手こずっているのに、私は誰も癒すことなんてできないのだ。
時に、傷ついた人に寄り添うことさえ、難しい。
むしろ、自分が被害者にさえなっている。
そんな自分が恐ろしい。
人間とはなんて弱いものだろう。
自分とはなんて無力なんだろう。
寄り添うとき、私が私であろうとすると、うまくいかない。
私は私を、押さえつけてもいけない。
「生きる意味」を失っている人に、
どんな言葉をかけることもできない。
すべての言葉が虚しく空回りする。
自分が誰なのか、自分で答えを見出さなければ、本当の「救済」はないのだろう。
その答えを見つけるためには
時には闇夜にとどまり
時には絶望を体験し
とことん自分と対峙することが、やっぱり必要なのかもしれない。
そして、本当に人が「癒される」とき
他人は決して無力ではないはずだ。
ただ、誰かに静かに寄り添ってもらっているとき
それは全く無意味ではないはずだ。
そのとき、無私無心となった者だけが
その人を癒すことができるだろう。
何もない静寂こそが、人を救うことがあるのだ。

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)
諸富 祥彦 / 日本放送出版協会

「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション)
ヴィクトール・E. フランクル / 春秋社

namaste
aki

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